一般社団法人 茗渓会

筑波大学同窓会
筑波大学/東京高等師範学校/東京文理科大学/東京農業教育専門学校
/東京体育専門学校/東京教育大学/図書館情報大学/図書館短期大学

学校および同窓会の沿革

茗渓の流れは枯れず

筑波大学は、開学40年を迎えました。ところが、その同窓会である茗渓会は132年の歴史を持っています。これは学校の変遷によるものです

学制と共に

歴史は明治まで遡る。当時政府は西洋の知識を取り入れそれを全国に広めるため、統一的な教育制度を作り出そうとしていた。そこで必要となる小学校の教育法の研究と教員養成の為の機関として生まれたのが「師範学校」であった。明治5年5月のことである。当時、校舎は御茶の水の旧昌平学校跡(現在、東京医科歯科大学のある場所)にあった。明治6年新たに大阪、仙台に師範学校が設けられたので「東京師範学校」と改称する。

その後、全国に府県立の師範学校が設置されると、官立の師範学校は無用となり廃止されていった。しかし東京師範学校は明治8年から中学師範の養成を行っていたため、明治19年に中学師範養成の機関「高等師範学校」として生まれ変わった。明治35年広島高等師範学校の設立に伴い、「東京高等師範学校(東京高師)」と改称した。明治36年校舎を大塚に移転する。

大学昇格へ

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大正に入り政府は大学制度の拡大にのりだした。それまで、帝国大学5校だけであったが、大正7年の大学令を境に、官立、公立、私立の専門学校などが次々に大学へと昇格していった。

しかし、「東京高師」は取り残された。大学は学問の研究、高師は教員の育成と区別されたためである。教育の研究はするが、教育学だけでは教員は養成できない。教科全体にわたる知識と研究が必要となる。そうすると総合的な研究を行う帝都大学を増設したことと同じになる。政府としては東京に同じような大学は二つも必要ない。

このような状況のなか、昇格運動は学生、教官、校長までも加わり、昇格か廃校かをかけて昭和4年の「東京文理科大学」の設置まで続いた。

解決の鍵が「文理科」という言葉にある。帝国大学では文科と理科とは別の学科になっていた。教員は、文科、理科をあわせ持った視点が必要との理屈から、「文理科」を内容とする単科大学として昇格を果たした。

結局、文理科大に、高等師範が併設する形で教員養成の機関も残った。

戦後の波に揺れて

第二次世界大戦の後、アメリカは日本の教育制度の改革を促した。戦前の旧制度の大学、高等学校、大学予科、専門学校、教員養成学校が合併されて、新制大学が創立された。東京文理科大学は、東京高等師範学校、東京農業教育専門学校、東京体育専門学校と合併し昭和24年「東京教育大学」となった。しかし、違った性格の学校を合わせて出来上がった新制大学の多くは、キャンパスの分散、人事面での対立などの問題を持っていた。

筑波の地へ

東京教育大は、大塚、駒場、幡ヶ谷、大久保などに分かれており、一つの大学としてまとまりにくい状況にあった。本部のある大塚キャンパスも手狭になっていたこともあり、移転の計画がもち上がった。しかし、それは単なる移転にとどまらなかった。医学、工学、芸術の分野を加え、総合大学に発展した反面、学則から「教育者の養成」の文字が消えた。大学の管理体制の改革、大学紛争への反省などのすえに、「国際A級大学」「開かれた大学」「学術的研究」などの新しい考えに基づいた新構想大学「筑波大学」が誕生した。昭和48年10月のことである。さらに、平成14年10月には図書館情報大学と統合し、図書館情報メディアの分野が加わった。そして、平成16年4月国立大学法人法(平成15年法律第112号)により「国立大学法人筑波大学」となった。