筑波大学が今年で開学50周年を迎えることを記念して、茗渓会と筑波大学新聞がコラボして、筑波大学で過ごした時期の思い出に関する同窓生投稿を募集しましたところ、合計30件の投稿をいただきました。ありがとうございました。
その投稿文を、卒業年度順(1979年~2020年)に以下に公開いたします。皆さんもこの機会に在学当時を振り返っていただければ幸いです。
なお、筑波大学新聞378号(2023/9/25発行、50周年特集号)6頁にもこのうちの13件が掲載されています。
開学からの50年
第一学群 自然学類 1979年卒 花上 克宏
1)県内出身のため、寮には入れず通学時間の制約と、スポーツはレベルの高さを感じサークルに入るのは断念。学業は高校とのギャップに戸惑い、インベーダゲーム、ディスコ、麻雀、ビリヤードと気の合う仲間と何となく過ぎ去った4年間。社会人になって始めたラグビーの縁もあり、樹木が大きく育ったキャンパスを訪れる度に、学生時代にもっとやれたこともあったのではと回顧しつつ、還暦を過ぎ、同窓生の活躍を応援し、何か貢献できることがあればと思いを馳せる毎日。
2)入学してすぐにあった磐梯青年の家でのオリエンテーション。磐梯1クラスでした。ハイキングやオリエンテーリングを楽しみました。個性的なメンバーが、多かったですね。まだ大の仲良しも多いし、友達の友達をたどれば、今でもみんな繋がる気がします。
第二学群 比較文化学類 1979年卒 穂坂 千秋
3)学業不真面目だった私の思い出といえばアルバイト。当時は第2・第3学群はまだ建設途中で建物増設や道路整備工事のアルバイトが結構ありました。2〜3時間の分割就労もできたため、第2学群のトイレ工事の合間にヘルメット片手に授業を受講その後バイトに戻ったのを覚えています。同じような方私の他にも何人かいました。ヘルメット片手に授業へ、当時の筑波大学ならではの「珍百景」でした。
第一学群 社会学類 1981年卒 加藤 充洋
4)1977年ラグビー部に入部。練習後に平砂宿舎の風呂で新人の大仕事。そこで先輩に出くわすと、裸のまま大きな声で自己紹介しなければならない。「自己紹介させていただきます。神奈川県〇〇出身、〇〇です。ポジションはセンターです。よろしくお願いします。」その程度だが、少しでも噛むと「もとい!」と怒鳴られ、何度もやり直しとなる。周囲の白眼と隣の女子風呂から漏れ聞こえる失笑。本当に恥ずかしかった。
体育専門学群 1981年卒 大石 進
5)平砂9号棟から体芸棟へ通った日々を思い出します。中華「珍来」お腹を満たしてくれました。喫茶「らんぷ」のカレーも好きだったなあ。ハンドボール部所属、関東学生リーグ戦では、常磐線に乗り駒沢体育館・屋内球技場まで往復しました。常磐線で時々行商のおばちゃんに会い「なんだっぺよお」茨城弁飛び交う列車内、懐かしい。土浦駅も駅ビルができる前、古い駅舎(軍艦駅)にバス乗り場、のどかな昭和の時代でした。
第三学群 基礎工学類 1981年卒 瀧下 芳彦
6)当時、できたばかりの一の矢宿舎には夫婦寮というのがあるという話を聞いて、地方高校を卒業したばかりの私にとっては、「そんな所に住む人がいるの?」という別世界の他人事。ところが、なんと個室が足りないという理由で、いきなりその夫婦寮に入るはめに、、、しかも男二人で(笑)。今振り返ると、広いスペースがあり、いろんな人が出入りしてにぎやかな交流の場になってましたね。今となっては懐かしい!
7)キャンパス内は建物も道路も建設途中。朝、全速力での自転車通学の途中、まだ未舗装の道に差しかったところですべり、泥道に思いっきりダイビング。見事なほどの全身泥だらけ、、、もう寮に戻る時間もない。このまま帰ってしまおうか? でも、この授業の単位取得は微妙。しかたなく恥を忍んでそのまま教室内へ。ちょっと間をおき、苦笑から大爆笑へ。特に先生には大ウケ。その熱意(?)が通じたのか、その単位は見事ゲット!
医学専門学群 1981年卒 山下 共行
8)大学時代の思い出といえば土浦での下宿生活。ここにはいろんな理由で学生寮に入れなかった同じ2期生の男が12名。下宿の親父さんと娘2人は土浦の繁華街で飲み屋を経営し、僕らはここでただ酒をなんどもご馳走になった。年1回の下宿旅行もあり費用もおおかた親父さんがだした。卒業して40年以上下宿の宴会は継続中。親父さんは90歳以上で約10年前に亡くなったが、娘さん2人は下宿旅行宴会に来ている。この思い出は一生の財産だ。
第三学群 社会工学類 1982年卒 高石 健太郎
9)ヨット部の私は毎年夏休みに館山北条寮で20日間程度の合宿をしていました。そこでは寮長の津田さんご夫婦が、日常生活すべてをサポートしてくれました。食事の準備ができると『ヨットー、メシー、降りてこーい』というおじさんの元気な声が寮全体に流れ、腹ぺこの我々は急いで食堂に集まり、すごいスピードで残さずかきこみました。食べ盛りの我々のために、常にたくさんのごはんを用意してくれていました。いつも隣のテーブルに座り『もっと食べろー』と笑顔で声かけてくれました。カレーや炊き込みごはんの味は忘れません。また日常の生活態度にも厳しく、トイレ、玄関等を汚しよく怒られました。おばさんは、いつも穏やかで、食事当番で食器洗いしていると『いつも食事当番で大変ねー・・・』と気にかけてくれました。ご夫婦のおかげで我々は楽しく充実した合宿ができました。おじさん、おばさん、ありがとうございました。
第二学群 人間学類 1982年卒 匿名希望
10)体育会系の新歓コンパでしこたま飲まされて、最後は松見公園の池で水浴び。今なら未成年飲酒その他諸々の違反で完全にアウトですよね。昔は良かったと懐かしむのは、認識ズレも甚だしいこと重々承知のうえの懺悔です。
第一学群 自然学類 1983年卒 河野 一嗣
11)ラティーゴの正面にあった源八(焼鳥屋)。僕の人生の一部です。壁一面に学生達が書いた色紙。体育会の部が日替りでバイトに入り、僕は土曜担当。社会人客はお断り。大将・ママさん・バイト連中と温泉にも行ったな〜。厚揚げの焼き方も上手になりました(カバ)
12)5周年記念で体育会向けLiveコンサートやろうと、社会人OBや飲み屋さんに資金集めで奔走。お陰でビジネス手帳の使い方をマスターでき、就活に役立ちました(企業から金もらって「紫峯」誌に広告出すのか!と文サ連合から批判されたのも良き思い出)
第一学群 人文学類 1985年卒 沼尻 浩司
13)それはまだ図書館情報大学が筑波大と一つになる前のこと。ある夏の日、平砂共用棟の風呂が使用できず友人と二人で図書館情報大宿舎の風呂場に潜入した。最初は適当に話を合わせ図書館情報大の学生たちに交じって和気あいあいと一緒に風呂に入っていたが、その内だんだん話の辻褄が合わなくなり、ついに身元がバレてしまい一転険悪な雰囲気に。これはまずいと、慌てて着の身着のまま平砂宿舎まで逃げ帰った。
第一学群 自然学類 1989年卒、修士課程 理工学研究科 1991年修了 匿名希望
14)入学した1985年は、めでたくも科学万博つくば博の開催年。夕方5時を過ぎると入場料が半額になるので、講義を終えてからしょっちゅうパビリオンに遊びに行った。もちろん、会場までは平砂からチャリで!結構距離あったはずなんだが、当時は何とも思わなかった。ただただ楽しいんだなぁ!
15)平砂宿舎では、1フロアに6人住んでいましたが、そのうちの1人がタイからの留学生でした。6人でたった1台のガスコンロしかないのに、その留学生は何時間もかけて、しかも香辛料の強い何やらエスニック料理を作ってました。そのうち彼氏も連れ込んできたし(笑)。いい人だったんだけど、やっぱりカルチャーの違いを感じた1場面です。国際色豊かな筑波大学ならではの経験。
16)入学当初、当時はまだ携帯もスマホもなかった時代。平砂宿舎の前には公衆電話が1台あり、日曜日の夜になると必ず行列ができていた。そりゃ、みんな親元に電話するよね。でも長いんだ、これが!みんな待ってんだから、早くしろ(笑)!
17)宿舎共用棟のお風呂が夜9時までで、部活を終えて帰ってくると間に合わない。いつも5分前とか10分前とかに駆け込むもんだから、管理人のおじさんに睨まれていた。
18)1学の前の松見池の横の坂道を、よく自転車で2人乗りをして駆け上がっていた。当時は普通にやっていたことなんだが、今ではよくそんな体力があったなぁと思う(笑)。
19)期末試験の後、ご褒美にシェーキーズの食べ放題に友達と行くのを楽しみにしていたのだが、あのでかいピザのピースとポテトをいくらでも食べた!食べても食べてもいくらでも食べられた。美味しくて、楽しかった。今でも筑波にシェーキーズがあるかどうかは知らないが、50代となった今、たぶんピザもポテトも2ピース食べれば充分だろう(笑)。
20)入学当時、女の子が筑波大学へ行くと、3人になって帰ってくる(笑)と言われて、それが気に食わなくて、1人で帰ってきたのはいいが、そのせいかどうか知らんが、卒業して何十年も経った今でも未だ独身(笑)。”
他大学 経済学科1991年卒 博士課程 ビジネス科学研究科 2003年修了 合田 浩之
21)①会社の業務を切り上げて,茗荷谷に急ぐ日々。六月の夏至の頃は忘れ難い。夜間大学院なのに未だ明るいうちに,学び舎に辿り着けるから。②あの頃は,茗渓筑波グランドフェスティバルというイベントがあった。そこで当時,筑波本校の院生だった女性と出会った。程なくして結婚した。③博士の学位記を憧れの本校で授与された。
第三学群 基礎工学類 1994年卒 竹内 晃久
22)’91年度一の矢4-505に住まわれていた女性の方。あのときは本当に本当にごめんなさい! 勝手知った男友人の部屋にいつものようにノックもせず上がり込み、部屋奥のこたつに潜り込む。こたつから改めて見渡した部屋の違和感とあなたの恐れ慄く顔を見るまで、ここは5-505の勝手知った友人宅ではなく隣の棟だったことに全く気がついてませんでした。謝罪の言葉も碌に出ないまま逃げるように退出しました。
23)忘れられない味といえばこれしかない。とんかつ太郎A定食大盛650円。カツが絶品なのはもちろん、学生への挑戦的な量の千切りキャベツ、ほんのり出汁が効いたポテサラ、そしてあさり汁。ソースをかけるのが多数派のようでしたが、僕はキャベツ含め全体にレモンを搾り、醤油をたらして食べるのがオススメ。揚げたての衣に染みたレモン汁と醤油の香ばしさがああもうたまんね。
第二学群 人間学類 1994年卒 川本 耕司
24)宿舎のオアシス、平砂共用棟(「きょうようとう」ね。誰だ「きょうようれん」って読んでたヤツは。ホントに合格したのか?)の朝ごはん、納豆卵定食。略してナッタマ定食。200円くらいだったっけ。貴重な栄養源だった。大きな寸胴の味噌汁をかき混ぜ、玉ねぎやキャベツの野菜をできるだけ多く取ろうと頑張ったり、同級生がバイトしてたりするとご飯少し多めにもらったりして。今でも納豆卵ご飯を食べると、当時の平砂共用棟の食堂、朝の冷んやりとした空気を思い出す。
25)バイトと言えば、当時西大通り沿いにあった「桜井ホテル」の朝食バイト、6時半から8時まで。ホテルの食堂に入り、まずはコーヒー作ってテーブルセット、お客さんが来ると和食ならご飯と味噌汁準備して、洋食ならコーヒー渡し、焼けたパンを持っていく。バイトが終わるとアジの開きで朝ごはんかき込み帰宅し大学へ。夏はともかく冬の6時半は厳しい寒さ、車のフロントガラスも凍り付き、溶かす時間ももどかしく、うっすら見える部分だけで西大通りをかっ飛ばす。今ではとても考えられぬ。 よく4年間続いたなぁ。一緒に働いた図情大の先輩方、お元気でしょうか。
第二学群 日本語・日本文化学類 2000年卒 野崎 芳恵
26)大学1年の必修の体育。先輩たちから「楽だよ~」といわれた科目が取れず、陸上をやることに。当然走るんだろうなと少々憂鬱に思っていたところ、始まったのは棒高跳び。予想外の種目でとても楽しく、棒高跳びを満喫しました。陸上を楽しんでもらいたいという先生の気持ちが伝わるとともに、専門の先生に教わるというのはなんてぜいたくなんだ!これが大学か!と思った思い出。現役学生の皆さんも、卒業後は専門の先生にスポーツを指導していただく機会はほぼないので、体育の授業を存分に楽しんでください。
第一学群人文学類 2006年卒 人文社会科学研究科2012年退学 匿名希望
27)大学構内を犬が歩いているのをよく見かけました(多分野良犬で、誰かが「副学長」というあだ名をつけているのを聞きました)。大学1年の頃、1限に出席するため朝早く一人でペデストリアンデッキを歩いていたところ、後ろからその「副学長」が追いかけてくる!大学会館から第一学群棟までずっと追いかけられ、講義棟に駆け込みました。今でも「副学長に追いかけられた」という言葉だけ思い出すとふふっと笑ってしまいます。
人間学群 心理学類 2013年卒 千手 禅二郎
28)ママチャリで茨城から福岡へ。大学生活では、「やってみる」を大事にしてました。その一つが、寝袋を持ってママチャリで実家の福岡まで帰ること。観光する余裕もなく、とにかくチャリをこぐ毎日。10日ちょっとで着きましたが、食費を考えると飛行機の方が安いという結果に。その他、サークル5個、大学3年からバンド、誘われて宗教の合宿に参加、マック100個、歌舞伎町のホストに面接に行くなど、とにかく手を出してましたね。
社会国際学群 2018年卒 高木 良奈
29)WINSの合宿で当てた素麺流し機で、WINS仲間と素麺パーティーして狭い1Kの部屋でとりとめのない話をしたこと。とりあえずWINSの活動全部が楽しすぎた。わたしの青春です!
人文・文化学群 比較文化学類 2020年卒 竹田 翼
30)大学一年生の夏のこと。一人暮らしにも慣れはじめ、バイトにサークル、友達付き合い、彼女との半同棲生活に現を抜かし、入学当初の高い志はどこへやら、立派にモラトリアム生活を謳歌していました。挙句の果てには授業を受けるか受けないか、友達とジャンケンで決めるようになりました。結果クラス担任の先生には、新しい環境に馴染めず不登校になったのでは、と心配をかけてしまいました。山口先生、その節はすみませんでした。
以上