東京都茗渓会第一回総会記念講演 要旨
『東京から江戸へ歴史を編む人・ひもとく人』
氏家 幹人氏
わたくしは茗渓の学舎を巣立ってから現在も奉職しております国立公文書館に勤めて4年程たった頃に『内閣制度百年史』という本の編纂執筆に携わりました。そのなかでこの史料は六十年安保の頃の岸政権の件ですが、当時の官公庁の刊行物などを精査し、下書きの原稿を関係各省庁の担当者へ回覧、その修正文言をさらに取り纏めるという作業を繰り返して作成したものです。ところが、その頃の世間一般では国会突入の騒動の中で女子学生の事故死などが喧伝されておりましたが、国の正史である刊行物に記載されたものがございませんでした。それは余りにも国民大多数の記憶と乖離した記録となると思い、敢えて一文を加えた次第です。この百年史が公刊されましたあといくつかのメディアから政権側の刊行物にこの事件が記載されたことの意外さを指摘されました。
正史と稗史の齟齬
こうした正史と稗史の齟齬は、江戸幕府の公的記録である『徳川実紀』におきましても当然ございまして、お示しした史料は八代将軍吉宗の美談として世に喧伝されてきた美女追放の大奥改革の件です。みめうるわしき者をリストアップせよとの下命により、その美女たちを解雇して結婚を奨励し、さなき容貌の者のみを大奥に残したという記述なのですが、実態は先学の三田村鳶魚が見事に考証したとおり真逆だったというのが、今では定説です。次の史料は、十一代将軍の家斉が側近の小姓たちを縁側から突き転ばすのを愉しんでいたというなんでもない悪戯のことを、その子供達の将来の立身出世に資すべく行った人物器量鑑定だったのだとのこじつけで正当化顕彰したものです。
個人史の中の史実
ことほど左様に正史では、むりくりの褒め言葉に溢れておりますが、一方では個人史のなかには詳細かつ的確に事実を記録し実態を批判したものが多数ございます。
例えば松浦静山の『甲子夜話』、江戸末期の旗本・宮崎成身の『視聴草』や天保期の旗本夫人・井関隆子の『日記』などです。私が面白いと思いますのは、例えば井関隆子の『日記』ですと、大奥での出産・乳児保育に関する件で、将軍家や大名家では多数の息女が生まれ過ぎるため、間引き方策として、非人間的な、スキンシップを一切欠いた育児方法をとっていたようです。それがようやく生母がみずからだき抱えて自分の乳を与えられるようになったことを寿いだ記事があります。
次は小野直方の30年にわたる克明な記録『官府御沙汰略記』です。タイトルから見ると政権の刊行物・掲示物などの記録集成かとも見えますが、それだけではなくごく普通の武士家族での日常の記録が実に興味深く多数記録されています。例えば、50歳を超えた隠居の自分自身が奉公人に産ませた女児を、正妻ともども、まことに手厚く近隣の嬰児を亡くしたばかりの町人へ養子に出した顛末も包み隠さず記録してあります。また親戚間での食器や什器の貸借、漬物作成の大根干しに至るまで克明かつ正直に、当時の世相や事件なども、正史に漏れた細部に至るまで書き残しております。歴史学側としてはこうした稗史こそ信頼のおける補完資料としております。
もののふの意地と作法
『盛衰記』もその一つで、皆様ご存知の水戸の黄門様ゆかりのお話です。
江戸初期の三代将軍家光は父親の二代将軍秀忠から冷遇されてきた方ですが、たまたま水戸徳川の二代目候補だった頼重も妾腹ということで父から抹殺されかけたところを家臣に助けられ、それを聞いた家光が手元に呼び寄せ、一緒に風呂に入ったりして遊びながら、互の境遇を語り合う機会がありました。「お前は水戸殿が羨ましいか?」と問われた頼重が「いえ、水戸殿はこうして上様と一緒にお風呂には入れないのですから私の方が恵まれております」と答えたところ「そうか、それならいずれは水戸並みの家老をつけてやろう」との言葉があり「本当ですか?」との頼重の喜びぶりに、ゆびきりかまきりしたというエピソードから始まります。
つづいてお風呂の話で、高松藩主となった頼重が側小姓の子供に自分の下がり湯を許したところ、有頂天になったその子供が同輩たちの前で素っ裸になり風呂に走った。それを見た先輩方が憤って、あんな馬鹿はお家のためにならぬ、煮殺してしまえ、と風呂に閉じ込めどんどん焚きつけとうとう殺したらしい。それを後で聴いた頼重がその先輩たち3名に切腹を申し付けたという壮絶なお話で、しかもその3名は「もとより切腹覚悟での所業だった」と言って自死したと記載されています。つまり、17世紀半ばの元禄の頃にはそうしたある意味で正史には載らぬ「もののふ」の意地やら作法があったわけです。
正史に遺らない記述
次は、やはり頼重がたまたま城内を散歩中、なにかで急いで走ってきた臣下が
角でぶつかりそうになり、慌てて退き失礼を詫びた時「うろたえたのか」となにげなく声をかけたところ、即日その家臣は家へ戻って妻を離縁し職を辞したというお話です。これも元禄あたりの武士の心だったのでしょう。
最後に聊か驚くべきことですが、解体新書が公刊される半世紀も前に地方のこの藩で、罪人刑死を藩主自らが行いその死骸を腑分けしていたらしいのです。これはだいぶグロテスクなお話ですが、その腑分けを手伝った側近に「お前、それを食ってみろ」と命じたところ、「ご前様からお先に」とその臓物を差し出し、「バカめ」と笑われたという記事もありました。
こういった正史に遺らぬ様々な記述が個人の編纂した稗史には溢れており、それを一つひとつ紐解くことこそ編まれた歴史を読み直す醍醐味だと思いますし、心のひだを震わせるものに出会える喜びとしてまいりました。